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御屋敷世古 高柳商店街の中程を南へ通じる世古で高柳駐車場の横へ出ます。この駐車場は昭和50年に、映画館「平和座」の跡地に建てられたもので立体駐車場としては早い時期のものです。
この辺りに山田奉行所の公事屋敷が在ったのが世古の名の由来でしょうか。
                          山田奉行
江戸時代の遠国奉行の一つで豊臣秀吉が、伊勢神宮の門前町として発達した伊勢の国山田に設置した奉行を江戸幕府が引き継ぎ、神宮の警衛や式年遷宮のさいの奉行・伊勢鳥羽志摩の支配、更に港での観察などを掌った。この世古の名の由来となった公事屋敷は元和四年(1618)・五年に山田奉行の山岡図書の公事屋敷が設けられていた。 奉行所は寛永12年(1635)頃に御園町小林(おはやし)に移された。 名奉行で有名な大岡忠相は正徳2年(1712)より享保元年(1716)までこの山田奉行所に勤めていました。
現在、小林にある「山田奉行所記念館」には書院やお白州が再現されている。
 

高柳駐車場の前に「奥文」という明治から続く料理旅館があります。上の古い写真(昭和の始め頃)の左端の建物は戦災をまぬかれ現在の本館(上右の写真)として昔の佇まいをみせています。建物の内や玄関横と坪庭にある燈籠・石塔などが落ち着きのある姿で残されています。


                          孝行うなぎの話
奥文には「孝行鰻」という先祖の話が伝えられています。 両親を喪った奥田文三郎は五歳のとき、隣家の左官 長谷川弥平に引き取られ長谷川弥吉と名を改め養子となりました。ゆとりのない養家を助けるため幼いながら、鰻の蒲焼を毎日休むことなく山田の町中で売るようになりました。町の人々は「孝行鰻」と呼び弥吉を励ましました。山田奉行も孝行心を褒めたたえ青銅五貫文を与えたといいます。その後行商のかたわら店での商いを始め、だんだん繁盛していったのです。
弥吉は明治21年6月25日 54歳で世を去りましたが二人の息子のうち弟の文吉が弥吉の実家「奥田家」を再起しました。弥吉は大世古墓地の奥田文吉の墓に隣接する「長谷川家」の墓所に眠っています。